本日はちょいと仕事をさぼり「都電荒川線」で下町散歩に出掛けました
さて都電荒川線は明治44年、大塚~飛鳥山間で開通し100年以上の歴史があります。沿線は下町情緒あふれる町並みが続き、荒川区三ノ輪橋から新宿区早稲田までの12,2キロを30の停留所で結びます。
また最盛期の昭和30年には41路線、総延長は213キロにも及びました。しかしその後マイカーの普及などで利用客が減少、さらに採算性の悪化が続きバス輸送に転換され徐々に姿を消しました
しかし荒川線は並走する明治通りの渋滞が激しくバスによる転換が困難とされ存続が決定。現在では都内に唯一残る路面電車として活躍しています。
さて初めに向かった先は早稲田から3つ目の「鬼子母神前」きしぼじんまえ停留所
ここ鬼子母神堂は安産、子育ての神様である鬼子母神(きしもじん)をまつるお堂です。
鬼子母神とは仏教の守護神ですが、その昔はインドの鬼神の娘でした。彼女には1000人の子がいて、子育てに必要な栄養をとるため人間の子供をさらって食べていたそうです。
そこでお釈迦様は彼女を改心させるため、彼女がもっとも可愛がっていた末子を隠してしまいます。すると彼女は嘆き悲しみお釈迦様に助けを求めました
するとお釈迦様は「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」と彼女をいましめたそうです。
つまり1000人も子供がいて一人失うだけでも悲しいもの、ならばたった一人の子をさらわれた両親の苦しみはいかほどであろうか・・・ と彼女をさとし、命の大切さや子供を可愛がる気持ちは鬼神も人間も変わりないことを教えました
その後彼女はお釈迦様の教えを受け改心し、鬼神から安産と子育ての神「鬼子母神」となることを誓い今日に至ります。
そして現在のご尊像は室町時代に文京区目白台で掘り出され、本殿は寛文4年(1664)に創建され昭和35年に東京都有形文化財に指定されました
また境内には樹齢600年を超えるイチョウの巨樹や、武芳稲荷堂、そして日本最古の駄菓子屋もあり人々の憩いの場として親しまれております。
続いて境内の一角には朱塗りの鳥居が印象的な「武芳稲荷堂」があります。
ご存知の通り稲荷神社は「お稲荷さん」とも呼ばれ馴染み深い神社のひとつ。総本宮は千本鳥居で有名な京都の伏見稲荷大社です。
さて平然と立ち並ぶ鳥居が神秘的ですが、そもそも鳥居とは神域への入り口を示すもの。つまり鳥居周辺には神が現れる降臨地があり、そこには現世から神のいる霊界へ続く関門があるそうです。
また千本鳥居は奉納により建てられており、願いが叶うたび次々と奉納されるため無数の鳥居が立ち並びます。そして「鳥居を通る」=「願いが通る」という語呂合わせから、お祈りしながら鳥居をくぐるとご利益があるそうです。
こちらは境内にひっそりと佇む日本最古の駄菓子屋「上川口屋」さん。なんと創業は今から235年前の1781年
江戸時代から店を構え現在の店主は実に13代目!またジブリ映画「おもひでぽろぽろ」に登場する駄菓子屋のモデルでもあり、この日もテレビ番組の撮影が行われてました
そして現在の建物は明治時代に建てられ、関東大震災や東京大空襲でも奇跡的に被害から逃れたそうです。
所狭しと並べられた懐かしの品々、中には100年以上使用している桐箱もありお店の歴史や風情を感じ取れます。
次に向かった先は「庚申塚」停留所
ここ庚申塚は「とげぬき地蔵」で有名な高岩寺の最寄り駅です。また「おばあちゃんの原宿」としてにぎわう巣鴨地蔵通り商店街の入り口にあたり連日多くの乗降客で込み合います。
さて庚申塚停留所では一風変わった光景が目に飛び込んで参りました。なんと都電のホームに甘味処「いっぷく亭」と居酒屋が店を構え、その隣にはお琴教室も隣接してます。
電車を降りて3秒のアクセス!もちろん抜群の立地条件なのでここにはお店の看板すら見当たりません
しかも路面電車の駅は「停留所」と呼ばれ改札がありません。つまり電車に乗らなくてもお店を利用できるため飲み助の私には嬉しい限りです。
さて、ここ「いっぷく亭」は看板なき隠れた名店として知られます。名物は北海道の特選小豆を使用した「手作りおはぎ」ですが、私がいただいたソース焼きそばも絶品です。
モチモチ麺に目玉焼きがトッピング、しかも彩かな盛り付けは食欲をそそるばかりか丁寧な仕事ぶりが伺えます。またメニューも豊富で、クリームあんみつ、抹茶アイスなど甘党の方にはたまらない品揃えです。
そして店内には荒川線にまつわる品も展示され、窓越しに都電が往来する姿はここでしか味わえない貴重な光景です。
さてさて次は「飛鳥山停留所」で降りると桜の名所でお馴染みの飛鳥山公園が姿を現します。
飛鳥山公園は約300年前(享保5年)徳川吉宗が桜の名所として整備した日本最古の公園です。標高25,3メートル、かつては都内一低い山として国土地理院に申請した事もあるそうです。
しかし周囲はすでに道路や鉄道にとどまらず膨大な情報が地図上に書かれておりました。そのため「飛鳥山」と記載するスペースがとれず却下されたエピソードがあるそうです。
そして公園内には資本主義の父「渋沢栄一資料館」をはじめ3つの博物館と野外ステージ、都電の展示物もあり連日多くの人々で賑わいます。
また荒川線は路面電車ですが一般道を車と並走するのはここ「飛鳥山~王子駅前」のひと区間のみ。したがい大部分は専用軌道を走るため渋滞とも無縁、つまり定時運行に支障がないことも荒川線存続理由の一つにあげられました
そして現在は一日の乗降客も5万人を数え地域に密着した交通機関として親しまれております。
さて荒川線の旅も終盤に差し掛かり次に向かった先は「荒川遊園地前」停留所
ここ「あらかわ遊園」は今から95年前の大正11年、失火で操業停止したレンガ工場跡地に開園した歴史ある遊園地です。
しかし当時はアトラクションと呼べるものは少なく温泉大浴場や演芸場、そして料亭など大人がくつろぐ保養所のような施設でした
その後経営難や戦時中は閉園にも追い込まれましたが、昭和25年荒川区の区立遊園地となり現在に至ります。
そしてここでは低年齢の子供が楽しく遊べるよう工夫されており、乗り物も一通り揃ってますが激しい動きのアトラクションはありません
また入園料も安く財布を気にせず利用できるうえ、園内には小動物園や水遊び場、そして釣り堀や芝生広場もありピクニック感覚で楽しめます。
ここ、あらかわ遊園は長きにわたり人々に愛される下町のランドマーク 。都会にいながら日常の慌ただしさから解放されるばかりか、ほのぼのした空気に時間が経つのも忘れてしまいました
続いて荒川遊園をあとに路地裏に入るとお目当ての店「ふく扇」 fukusen を発見
ここはたこ焼き屋ですが「たこせん」が看板メニューのお店です。混雑時は行列ができますが本日は並ばずお目当ての品にたどり着けました ^ ^
さて「たこせん」とは大阪発祥のソウルフードで、タコをプレスした姿焼きとは異なり「たこ焼き」をエビせんでサンドしたもの
そして今ではB級グルメとして知られますが始まりは昭和40年代にさかのぼります。
当時大阪岸和田の学習塾の前に一軒のたこ焼き屋がありました。常に塾の生徒で賑わいましたが、タコ焼きのトレーを所かまわず捨てるため近隣からの苦情が絶えなかったそうです。
そこで店主が考案したのはエビせんべいの上にたこ焼きをのせる方法です。つまりエビせんを容器として利用するためゴミも出ずく苦情もなくなりました
それがクチコミで関西一円に広がり、今では全国的にお祭りやイベントに欠かせないアイテムとなりました。よって厳密にいえば大阪発祥なので「大阪たこせんべい」という呼び方が正しいみたいです。
さてさて話は「ふく扇」に戻りますが、この店の「たこせん」にはこだわりが山ほど詰まってます。
出汁とソースは大阪直送の本場仕込み!しかもシンプルに見えてタコ焼き2個、マヨネーズ、オカカ、特製ソースの4段仕立てでお値段たったの100円なり
そればかりかパリパりのエビせんとトロトロのたこ焼きの異なる触感は病みつきになります。
下町情緒あふれ気さくな店主がもてなす「たこせん」の名店「ふく扇」 fukusen
昭和の香り漂う風情ある店構え、そして古き良き時代背景を継承しつつ末永く営業していただきたいです。
さて長旅でお腹をすかせた私は「たこせん」に続き「もんじゃ焼き」へ移動
ご存知の通り「もんじゃ焼き」とは下町のローカルフードでお好み焼きのルーツとなった食べ物です。
発祥は古く200年前の文政2年、葛飾北斎が発行した北斎漫画に「文字焼き」のさし絵があったため、既にこのとき江戸には「もんじゃ焼き」に類する食べ物があったとされます。
そもそも文字焼きとは「もんじゃ焼き」の由来にあたるもの
つまり子供たちが水溶き粉で鉄板に「文字」を書き覚えながら食べたことから「文字焼き」→「もんじ焼き」→「もんじゃ焼き」と呼ばれるようになったそうです。
また現在のもんじゃ焼きにつながるスタイルは江戸時代末期から明治時代にかけ東京の下町で誕生しました
しかし当時は薄く焼いた生地に甘い蜜をかけただけの「甘味」であり駄菓子屋で売られてました。その後しだいに味や具材に変化が加わり現在の形に近づいたそうです。
したがい今でも「もんじゃ焼き」が駄菓子屋で提供されるのは、かつて甘味として駄菓子屋で食べられていたかです。
さて、そろそろ日が暮れてきたので荒川線の旅もここで終了です。今回もハードスケジュールでしたが下町情緒あふれる街並み、そしてほのぼのした雰囲気に大都会東京の別の姿を発見できました
皆様もぜひ下町散歩を楽しんでみてはいかがですか ^ ^